映像製作団体【Phono-Vision】(フォノビジョン) のページです。
 

不思議の国のアリス -2004.05.04-
五月病のシーズン到来ということもあり、世間はうだつの上がらない様相を呈してまいりました。無気力、脱力感、などに襲われることを五月病と呼ぶそうだが、随分便利な言葉だ。「黄金週間」とか「五月病」とか、世間様の5月はユルユルだ。ついていけない!

「一回くらい寝たからって、私の五月になったと思わないで。早く帰って。」
(鏡台に向かいルージュを塗りながら、ベットで横になる阿呆たちに罵詈)

きっと世間でいうところの五月はこんな感じのやりとりをされたような感覚なのだろう。天竺(GW)から疑獄(職場)に戻される皐月。まるで一夜の夢の如し。か。五月は寓意・寓話が渦巻く眩暈のする、安部公房的不条理を体感するのだろう。ならば、

「不思議の国のアリスを見ろ!」

と言いたい。この映画、全くもって理解できない。面白いけど、あまりに変態すぎて理解できない。五月病なんて屁のツッパリにもならんですよ。そりゃそうだ、原作ルイス・キャロルが正真正銘の凄い人なのだから。

オックスフォード大学の数学・論理学の教授だった彼は、学長の娘アリス・リデルにせがまれて、不思議の国のアリスを書き始めたという。教授という堅実な職業の反発なのか、多彩な趣味を持つルイスキャロル。アリスの世界でも御馴染みのキャラである、パズルや望遠鏡や手品などに始まり、写真やスケッチと様々だ。ただ…。ただ…。
彼の描写する被写体が、ずべからず“少女”なのが…。

美少女たちのポートレート撮影に没頭するキャロル。彼はたくさんの少女たちに、とっかえひっかえ衣装を着せては写真を撮り、1871年に自分の写真スタジオまで作ってしまった。まさに『キャロル夜明け前』(著・ジョニー大倉)。

彼はいわゆる幼児愛好家だったのだ。写真を撮るために、『不思議の国のアリス』の本を少女たちに配りまわって、撮影のモデルを頼んでいたほどの真性だったのだ。
お気に入りだったアリスには、彼女が13歳の時にプロポーズをしている。その時、キャロル30歳。孔子の名言、
「吾十五にして学に志し、三十にして立つ」
を彼なりに実践した結果だ。クララ顔負け。
ルイスが立った! ルイスが立った!
勿論、アリスの家族は大反対。アリス宛のラブレターは全て焼き捨てたという記録が残っているほどである。

この一方通行の原因背景には、当時のヴィクトリア王朝の厳しい政治による弾圧で、少女への憧れが抑圧されたため写真撮影に急激に向ったとされる。その一方で、学生時代の寄宿舎で性的なトラウマを受け、成人の女性と関係を持つことができなくなったのでは?という説もあるとか。頭脳明晰な彼は内気でどもる癖があったらしいのだが、少女の前では不思議と普通に話すことができたのだという。安心感を得られるのが少女だけというのは、ある意味、彼が明鏡止水の境地に達しているからなのかもしれない。

1880年になって、彼は突然写真撮影をやめてしまう。それは国内で少女達のヌード写真撮影が問題になって騒がれためだ。ポートレート作品には、ぼろぼろの服を着て物乞いに扮した少女、チャイナ服でこちらを見つめている少女、読書の途中でふと顔を上げた少女など、どれも几帳面に名前がつけられ、誕生日の日付とともに分類されている。

ヌードの写真があるかどうかは知らないし、興味もないが、彼がプツリと撮影を止めてしまう「弱さ」「見識」に、現実と虚構の狭間を見る思いがする。誕生日とともに分類されているあたりからは、ルイスキャロルの“燃焼”っぷりが垣間見て取れる。ポートレートを作る彼の嬉しそうな瞬間が見えてきそうだ。

あまりに純粋、もしくはあまりに混入物ゼロのルイス汁100%で綴られただろう「不思議の国のアリス」の世界観は、そんなわけで理解できないのだ。いかれ帽子屋・三月うさぎなどキ○ガイたちが出て来るドラッグムービーのようなドライブ感も、脳内麻薬なのかクスリなのかすらも解らないルイスキャロルの世界。それを偉大なる変態ディズニーがアニメとして完璧に完成させてしまったのだから、常人には理解できようはずもない。続編「鏡の国のアリス」の一部を挿入して、ただでさえ壊れている原作をさらに破壊するディズニーの「不思議の国のアリス」は終始、不思議だらけに仕上がっているのだ。

DVDには、ミニチュアの機関車に乗って颯爽とディズニーが登場するという奇天烈な映像特典もついてくるので、それを見てディズニーの偉大さを噛み締めてほしい。この姿を見ると続編「鏡の国」も作って欲しかったと止まない。ほんと、いい意味で適当になれると思うので、よかったら是非鑑賞してほしいところだ。あと、植草ミラーマン元教授は犯罪者で、ルイスキャロルは異常者。別モンだということを、世間様はちゃんと理解しやがれ。

「おちこぼれのどこが悪い。世の中ウルトラマンやゴジラばっかりじゃないわい!!」
というキン肉マンが言った素敵なセリフを五月病の人に捧げてまた来週。


サンダーボルト -2004.04.25-
ここ最近の“文藝春秋がおおくりするヒットパレード”、
金原ナニガシ・綿矢ナニガシの芥川賞〜鈴木あみの復活劇などの一連の動きは、アメリカンニューシネマを想起させ興味深いです。金儲け目的なのは除いて。

特に鈴木あみの復活なんて、まんまアメリカンニューシネマみたいなドラマ性を持っている。夢を失った悩める若者の青春、ドロップアウトした第二の人生、反体制、現実逃避(ロードムービー的な)、ハッピーエンドではない、などなどがアメリカンニューシネマの大体の輪郭だと思うのだが、鈴木のあみのソレと見事なほどリンクしている。1960年代後半に起こったムーブメントを、この2000年代に実践しているのだから、鈴木あみは随分アナログな人生を(華やかな芸能界とは裏腹に)歩んできたんだなぁ〜と思う。

そのため復帰後の仕事が、サンデージャポンやアッコにおまかせ! というのも納得が出来るし(文藝春秋らしい選択)、絵になる。そしてなによりちょっと応援したくなる。

で、このアメリカンニューシネマという枠組み。ドラック・暴力・セックスなどを題材に扱い、当時の若者から絶大な支持を受けた過去を持つ。 そこで重なってくるのが、金原ナニガシや綿矢ナニガシの作品傾向が、上記の3つとピッタシではないものの遠からず…いやむしろ二アピンだということだ。2000年代の若者文化の最先端文学が、なんちゃってアメリカンニューシネマ的思考だとは。恐るべし、J文学。

そんなnot贋物、真性アメリカンニューシネマ野郎、鈴木あみに参考にしてもらいたいのがクリント・イーストウッド主演「サンダーボルト」(1974年)だ。足を洗って一線を退いた銀行強盗(ベトナムに派兵された過去を持つ)のイーストウッドが、血気盛んな若者と出会い、再び泥棒稼業に足を突っ込むという本作は、芸能界という闇に再度アタックをかけた鈴木あみ氏にピッタリのはず。老兵は死なず。完全燃焼しようとするイーストウッドと、彼に憧れる若者ジェフ・ブリッジスの「強いキズナ」はただただ痺れる。
ぬるいイメージの強いアメリカンニューシネマを、クリント・イーストウッドの演技で武骨に、ジェフ・ブリッジスの演技で屈託のないように、包装し世に出したチミノ監督はやっぱり凄い。

鈴木亜美のプロデュースはマイケル・チミノに是非ともお願いしたい。


モンティパイソンandホーリーグレイル -2004.04.19-
「イラクでの日本人拘束事件」よりも、「いかりや長介逝去」の方が、僕にとっては有事だった。綺麗なほど、皆、いかりや逝去を洗い流した感がある。ベース姿の長さんは、イラクで拘束されたアホ日本人によって過去の人となってしまった。

雨の振る日、僕は友人の構成作家と二人で告別式を見届けるべく青山葬儀場まで出かけた。「ドリフが好きだったから、一応、出席しておきたかった」のと「盛大な葬儀となることを期待した」からだ。

青山くんだりまで行って、我々の目に飛び込んできたのは、ベースを弾くいかりやの遺影だった。ハッピも着ていなけりゃ、「オイッス!」ともピクリともしない、ダンディないかりやが格好をつけていやがった。どうやら、長男のチョイスらしい。我々二人が異口同音に「なんて親不孝ものなんだ!」と唱えたことはあえて言うまでもないだろう。せめて…大河ドラマ「伊達政宗」で好演した鬼庭左月の顔写真なら許せたものを。その瞬間、雨脚が強くなったような気がしたことを、いまだ覚えている。

周りを見渡したら、自分より年下と思われる人たちが泣いていたりした。「もう和久さん、見れないんだね」なんて声も聞こえたりした。あ〜、いかりやはもう死んでいたんだな…と感じたものだ。そう思う横で、カップルがいちゃつきながら写メールを撮ったりしていた。あいかわらず。
それでも「盛大な告別式」を期待した我々は、加藤茶の弔辞に一縷の望みを勝手に託した。が、

「へックション!」とは最後まで言ってくれなかった。

最後までお行儀の良い告別式だったなぁ…、と僕らは何故かわからないがドトールで反省会を開いた。「これが日本式なんだから仕方ない」とか「親や兄弟が死んだら、静かに悲しみにくれるのが西国武士なんだから仕方ない」「いやいや東国の武士は荒くれ武者だから、行儀は良くないはずだよ!」とか。そんなことを言いつつ思い出したのが、モンティ・パイソンのリーダー、グレアム・チャップマン(享年・48歳)の葬儀のエピソードだった。

彼は死ぬ前、メンバーのジョン・クリースに
「いいか、クリーズ。君はTVで初めてshitと言った尊敬すべき男だ。もし俺の追悼式を本当に俺のためのものにしたいなら、まず手始めに、君にイギリスの追悼式で初めてfuckと言った男になってほしいんだ…」
と言ったそうだ。そして彼は死んだ。

チャップマンの葬儀でクリーズは“shit”と“Fuck”を連呼した。葬儀は笑い声も聞こえるほど、盛大だったという。最後に列席者全員でモンティ・パイソンの形見とも言える曲を歌い(ドリフで言うと「ドリフの大爆笑」的な曲)、彼を見送った。『死ぬまでコメディアン』だったのではない、『死んだ後もコメディアン』だったのだ。

その飽くなきモンティ・パイソン魂は「ホーリーグレイル」などを見れば、誰にでも少しはわかるはずである。ここまでバカで適当でくだらない映画を撮りきったことが、この葬儀の破天荒さをバカ理解するバカ回答かもしれない。“スタッフにツッコミが一人もいないと、こういう映画が出来上がるんだな”とバカ思う次第だ。きっとドリフターズもドリフ魂の葬儀をしたかったのではなかろうか。

「中山エミリは本当のマルチタレントやで!」と、友人が声を荒げたことで僕はふと我に返った。なぜドリフから中山エミリに話が変わっていたのかは、さっぱり理解できないが、面白かったから大爆笑したような。

イラク事件の高遠弟妹により、いかりやは三途の川を渡らされた。“もしもこんなドリフな葬儀があったら”と考えると、なんだかやりきれない。志村か茶の時は、聖杯を飲み干した不老不死の芸人として、デカイ花火を打ち上げてほしいな。なんて、願っちゃったりなんかして〜。@広川
(※「王室記念式典で初めて“Fuck”と言った男になってほしいんだ…」と話したとも言われる)


ヤングマスター -2004.04.10-
金曜ロードショーで「ラッシュアワー2」が放送されていた。衰え著しい後期ジャッキー作品を地で行くような作品で、見ていてなんだか寂しい気持ちになってしまった。それでも、お約束のNG集は“歳をとるごとにキレを増している”ような気がするから、やっぱりジャッキーは最高のエンターテイナーだ。石丸博也の吹き替えは、いつ聞いても最高。NG集のアテレコ風景を想像しただけで、石丸先生の匠っぷりがわかる。僕もいつか、ジャッキー映画のNGアテレコに参加して、世の中に住みついた膿を取り除いていければ。と思う。

前記した“衰え著しい”というのは、初期作品に比べアクションのカットシーンが多くなっているということである。歳をとっているわけだから、仕方ない、と言えばそれまでだが、名作「酔拳」などを見ればその差は一目瞭然。
視覚効果としてのカット割りではなく、演者のスキル限界からくるカット割り(この二つを巧みに融合させたのがマトリックス1)が多ければ多いほど、ジャッキーの映画界における死期は近いと言っても差し支えないだろう。僕らが見たいジャッキー、という意味では。

ずっと昔、NHK教育テレビでジャッキーの半世紀を振り返る番組が放送された。衰えた体にムチを打つように木人拳をこなす姿や、5本指逆立ち腕立て伏せをする姿は、子供心、純粋に「凄ぇ!」と思ったものだ。彼の両親は、貧困から脱するためオーストラリアに移民し、幼いジャッキーを泣く泣く中国に残し去っていった。当時の豪州は白人主義で、必要最低限の黄人は入国を許可されなかったためだ。それを年端の行かないジャッキーは理解し、必ず親孝行をしてやる!という一心のみで雑技団生活に明け暮れていたのである。そしてそこで出会い、運命共同体となったのが、ユン・ピョウとサモハン・キンポーというのは有名だ。

その後ジャッキーは「蛇拳」や「酔拳」といった成功により、アジア圏で確固たる地位を築いた。ある意味、「プロジェクトA」などに見られる中期作品時代へと変移を遂げる、この時期までがジャッキーにとって“問答無用でギラギラしていた”瞬間だろう。ハリウッド進出を目論む姿も野心的だったが、それは前途の誓いとは近いようで遠い。

ジャッキー映画の原点であり、最もキラキラしてるのが、初期〜中期へと移行するさなかに制作された「ヤングマスター」ではなかろうか。幼少期から青春期をアクションに費やしてきたジャッキーのクンフー集大成とも言える本作は、芸術の域に達しているといってもいい。
ラッシュアワーのジャッキーが止まって見える。カット割りを必要としない玲瓏なクンフーは、死ぬまでに一回は見ておくべきだ。ストーリーも復讐といった“ありがち”なものではなく、カンフーアクションものにしては珍しく起伏が多い。砕いて言うと「電子ジャーから復活したピッコロ大魔王を再び滅しに行く」という感じなのだが、クンフーシーンの多さが半端でないため、最終的には“ありがち”になっている。しかしそんなことはどうでもいい。

ジャッキーが好きだろうが嫌いだろうが、この作品は映画として見ておくべき魂の作品に仕上がっている。松井のホームランは凄い、ロナウジーニョのプレイは凄い、そういった人間のファンタジーを体感したいなら、尚更。成龍。


マスターカード -2004.04.04-
個人的に、今春から放映されているマスターカードのCMが面白くて仕方ない。いつもの調子でプライスレスまで漕ぎ着ける、お約束のパターンなのだが、今度のヨーロッパ篇は珠玉の出来なのではないだろうか。

“モロッコの市場で買った何か”“ポルトガルで飲んだ何か”などなど、明らかに『旅』をする上で「アウト」な行動が続いているところからして凄い。ちなみに“モロッコの市場で買った何か”は、どう見ても『でっかい帽子』だと思います。その挙句が、“言葉の通じない国で出会った何か…プライスレス”と、くるわけだ。最後まで“何か”わかんなかったのかよ!

あんだけ旅先で“何か”が続くと、結果的にあの一家は何も理解できていないまま帰国するような気がしてならない。それでプライスレスって言われても、『健忘症のことをプライスレスって言っているのかなぁ』と思ってしまうぞ。一応、モロッコやポルトガルといった地名は理解しているようだから、そんなに阿呆ではないのだろうけど、もしかしたらモロッコにいるのに「ここがポルトガルか〜」などと子供に説明しているような気もしなくはない。

勿論、このCMが伝えたい主旨はわかる。要するに“サムシング”という意味での“何か”ということでしょ。だとしても、あれだけ鮮明な映像が流されているのにも関わらず“何か”が続くと、健忘症コントになってるって。
そのオチが“言葉の通じない国で出会った何か”だもんなぁ。いいCM。

まぁ、このCMでマスターカードを利用したくなるかと言われれば「NO」ですけど、妙に頭に残るという意味では成功ではないかと。昨今のインパクト重視・内容ゼロの即効性CMが氾濫する中にあって、これだけ中毒性をもたらすCMってのは素晴らしいと思う。“何かの連続”を押し通したであろうCMプランナーに拍手をおくりたいです。見る度に、新たな発見があって笑っちゃうよ。


ロスト・イン・ラマンチャ -2004.03.29-
いつもいつも“公表しない主義”と表記するのは、基本的に全部満点だからです。昔のCXモノマネ番組で“10点しか出さない、衣装担当「保沢さん」みたいなもの”だと考えて下さい。余談になるけど、この頃のCXモノマネ王座決定戦は面白かった。

たけし軍団、しのざきみわが出るのは当たり前。ピンクの電話(ラッコのマネ)VSおぼんこぼん(森繁久弥のマネ)なんて夢のカードですよ。おまけに、点数が並んだ場合は“ジャンケン”で勝ち残りを決めるテキト―さ。針すなお先生がヘッドホンで聞き比べている最中にも、先生自筆の微妙に違うイラストがお茶の間に出続ける。などなど“東南アジアの先進国”のような清濁を併せ持っていた。ちなみに自分は、ダークホース「くわまん」をいつも応援してました。息子のために頑張る姿が勇ましかった!

で、本題に入ります。今回は「ロスト・イン・ラマンチャ」を紹介しようと思います。本作は、元モンティ・パイソンのメンバーで、未来世紀ブラジルなどで御馴染みのテリー・ギリアム監督のドキュメント映画です。

内容は、アメリカ資本にNGを出された「ドンキホーテ」の映画化実現を達成すべく、ヨーロッパ資本で勝負しようとするギリアムの奮闘記といったところ。先鋭の揃わないヨーロッパという土地と、不慣れな環境で映画作りに四苦八苦するギリアムの悲劇をショウビズとして世に送り出したという「棚からぼた餅」的な作品にもかかわらず、最高のエンタメに仕上がっている。

当初は、キチンとした形で「ドンキホーテ」を公開するつもりだったのだろうが、その夢は泡の如く消え、残り香でこの作品を作ったというのが現状なのだが、その悲哀ときたら筆舌に難い。何十億という(当時、ヨーロッパ資本最高額)資金を費やしながら、『豪雨により一夜にしてセット・機材が流されていく様子』や、『主演役者のヘルニア発覚で馬に乗れなくなる様子』などで、マジ凹みするギリアム・スタッフの落胆振りは大爆笑必至。

モンティ・パイソンの中で、唯一のアメリカ人であるギリアムのアメリカ的発想に付いてこれなくなる現地のヨーロッパスタッフの煩悶などなど……高みの見物と洒落込むには、これほどの映画はないだろう。すべての悲惨な出来事を、最終的に「ドンキホーテの呪い」と言い張り、悪夢だ! 誰も悪くない! と風呂敷をたたむ姿は面白すぎ。
加えて、ギリアムと現地スタッフの対比が、あたかも“もう一つのドンキホーテ物語”のように映ってしまっているから素晴らしい。

映画作りに興味のある人、関わっている人は必見の作品です。


江角マキコ -2004.03.23-
江角マキコの“国民年金未納”にカタルシスを見た!
かねてから僕は、こういう傲慢の矛と緩慢の盾の衝突が見たくてしかたなかったのだが、ついにやってくれた。

僕的には“石井館長(元K-1プロデューサー)が確定申告イメージキャラクターに任命されて、「ダ〜イナマイトッ!」と館長が締めくくった瞬間に脱税が発覚する”というような夢物語を抱いていたのだが、今回の件もなかなか味が出ているので“ならば好しッ”としよう。

この他にも、“永きにわたる自民党体制が崩壊し、細川連立内閣誕生。細川首相最初の挨拶で「解散!そして総辞職!」と強権を発動する”的な政治行為も見たくてしかたなかったのだが、まぁ今回の件でとりあえず我慢する。

江角マキコの国民年金未納は、結果的にアウトローな態度になってしまっているため、どこか「カッコイイ!」と思ってしまう。そのため、完璧なカタルシスとは言えない。(後日の謝罪会見で、グズグズになった。再び江角評価下がる)

上記のフィクション2つは“バカ丸出し”以外のなにものでもなく、悲劇が喜劇にまで昇華される見事なカタルシスだ。その統制された完璧なカタルシスがドリフでは見れた。“市民ホールにセット組んで、パトカーを突っ込ませブチ壊し、ボケ倒す”。高度経済成長の賜物と言えばそれまでだが、だとしてもアウトサイダーだ。おおそうだ! 彼らはドリフターだった! 放浪者だ! カッコイイなどという言葉では表現できないのだ。

以上、無理矢理、いか長崩御と繋げてみました。




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